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霧状

足を挫いた。歩くととても痛い。昨日酒に酔ったとき足がもつれて転んだのだろう。どこで転んだかは記憶にない。ズボンの膝部分も擦り切れていて血が滲んだ跡があり、脱いでみると瘡蓋ができている。

ハメを外してしまった。限度量を越えた酒の摂取をしたのである。発言も覚えていない。嗚呼、と頭にモヤがかかった状態で朝の天井を見上げると、大量の黒い線が蠢いている。頭も打ったのかな、二日酔いによるものではない物理的痛みもあるのではないかと、頭を触って確認してみるが、瘤らしきものはない。じゃあこの黒い線は何なんだと、また天井に目をやると、あるのはただの天井である。俺は面倒になり、もういい、とぼやいて、足の痛みから逃れるために目を閉じた。

党派

人が2人以上集まれば社会が生まれ、そこには予断ならぬ政治的緊張が現出する。これがみんなが大好きな「万人の万人に対する闘争」である。イエイ!そう、目の前にいる相手を信用してはならないのだ。仲の良いそいつはきっとどこかで俺のことを利用しようとしていて、ならばこちらも何かしらの形で利用してやろうとしなければ政治的互恵関係が成立しない。

しかし俺は自分で言うのも何だか極めてお人好しである。実践弱者なのだ。飲み会で後輩が奢ってほしそうにしていたら、罵詈雑言を浴びせることで何とか自身の精神的均衡を保ちながらも、何だかんだで多めに出してしまっている。これを政治的敗北と呼ぶ。

「先約があるから」。飲みに誘ったらただのデブの同期の友人に言われた。そいつは友人である以前に同期であり、同期である以前にただのデブだから、こうした語の並びになっている。何が先約だ。偉そうに。たかが飲み会だろ?いや、そんなことじゃない。何よりも気に食わないのは「先約があるから」と拒否することによって、先約先のコミュニティに俺を近づけまいとする意図が透けて見えるところだ。こいつは介在的審判者を無意識的に演じ、理由なく俺を見えない力で遠ざけたことになる。これは明らかに政治的挑発である。デブの癖にふざけやがって。舐めやがって。

こうした唾棄すべき党派性は、可視化するべき、もしくは破壊しなくてはならないと考える。だが自分自身も宮台が言うところの「島宇宙」をどこかで構成する一員であることも念頭におかなければならない。念頭においた上で、自分のことは棚に上げた上で、他人の醜悪な帰属意識と排他的思考をやり玉にあげていくのである。具体的には「○○さんって、なぜだか知らないけど、□□のこととても大事にしてますよね!そんな価値どこにあるんですか?いや純粋に教えてほしいんですよお!」と愛想よく言うのだ。無論、○○は党派マンの名称で、□□には「党名」がはいる。無害な不快因子であること。つまり非武装の公共の敵であり続けること。これが実践弱者の俺ができる一つの生存戦略でもある。

 

錯綜

堅実な人生設計を否定したところにこそ道が現れるはずという漠然とした虚無信仰を棄てなければ、俺の世界認識は常に曖昧模糊なものであり続けてしまうことがようやく分かってきた。というのも堅実な人生設計を組み立てている人たちの集合的無意識が強く力学的に働いているのがこの社会だという前提があるのは当然のことながら、問題なのは俺のこの雑な認識様式が対応できる生き方が臨機応変という大義名分を携えた「敢えて計画しない」方向性しかないところにある。人生を楽しもうとした時点でそれに失敗したらその人生は地獄なんである。自分で生み出した可能性の墓場を徘徊するリビングデッドなのがこの俺なのだ。
ここまで書いてきて、いやそこまで書いていないことに気づくと同時に、俺自身何を書いたかよく分からないが、そこは雑に汲み取ってほしい。要するに多様性と可能性の泥沼であがいているのだ。
そして滑稽極まるがそれを本気で面白いと解釈する他人がいる。昨日飲んだ1年生がその類だ。偉そうにアカデミック面しやがって。古人の論理を収集するのが好きそうで若いなと思ってしまった(そう、しまった!のである)一方で、こいつらも俺と同じ泥道に足を囚われ本棚を埋めながら死んでいくのだと考えたら妙に酒が回ってきてしまった。俺達は性欲の話でしか繋がれない。

だからどうした、という話だ。ブログを作り「すべての人に公開」したが多分誰も見ないだろう。友人にあえてひけらかすことも現時点では想定していない。まず誰のものとも分からぬテキストされた自意識を電子空間上に残すこと自体がナンセンスである。そしてブログを書くことの恥ずかしさを冒頭に書くのも同様に恥ずかしい。
しかし文字にすることで何か自分で気づくかもしれない。ここでは記録や発信よりも整理という点に重きを置いていきたい。