錯綜

堅実な人生設計を否定したところにこそ道が現れるはずという漠然とした虚無信仰を棄てなければ、俺の世界認識は常に曖昧模糊なものであり続けてしまうことがようやく分かってきた。というのも堅実な人生設計を組み立てている人たちの集合的無意識が強く力学的に働いているのがこの社会だという前提があるのは当然のことながら、問題なのは俺のこの雑な認識様式が対応できる生き方が臨機応変という大義名分を携えた「敢えて計画しない」方向性しかないところにある。人生を楽しもうとした時点でそれに失敗したらその人生は地獄なんである。自分で生み出した可能性の墓場を徘徊するリビングデッドなのがこの俺なのだ。
ここまで書いてきて、いやそこまで書いていないことに気づくと同時に、俺自身何を書いたかよく分からないが、そこは雑に汲み取ってほしい。要するに多様性と可能性の泥沼であがいているのだ。
そして滑稽極まるがそれを本気で面白いと解釈する他人がいる。昨日飲んだ1年生がその類だ。偉そうにアカデミック面しやがって。古人の論理を収集するのが好きそうで若いなと思ってしまった(そう、しまった!のである)一方で、こいつらも俺と同じ泥道に足を囚われ本棚を埋めながら死んでいくのだと考えたら妙に酒が回ってきてしまった。俺達は性欲の話でしか繋がれない。

だからどうした、という話だ。ブログを作り「すべての人に公開」したが多分誰も見ないだろう。友人にあえてひけらかすことも現時点では想定していない。まず誰のものとも分からぬテキストされた自意識を電子空間上に残すこと自体がナンセンスである。そしてブログを書くことの恥ずかしさを冒頭に書くのも同様に恥ずかしい。
しかし文字にすることで何か自分で気づくかもしれない。ここでは記録や発信よりも整理という点に重きを置いていきたい。