党派

人が2人以上集まれば社会が生まれ、そこには予断ならぬ政治的緊張が現出する。これがみんなが大好きな「万人の万人に対する闘争」である。イエイ!そう、目の前にいる相手を信用してはならないのだ。仲の良いそいつはきっとどこかで俺のことを利用しようとしていて、ならばこちらも何かしらの形で利用してやろうとしなければ政治的互恵関係が成立しない。

しかし俺は自分で言うのも何だか極めてお人好しである。実践弱者なのだ。飲み会で後輩が奢ってほしそうにしていたら、罵詈雑言を浴びせることで何とか自身の精神的均衡を保ちながらも、何だかんだで多めに出してしまっている。これを政治的敗北と呼ぶ。

「先約があるから」。飲みに誘ったらただのデブの同期の友人に言われた。そいつは友人である以前に同期であり、同期である以前にただのデブだから、こうした語の並びになっている。何が先約だ。偉そうに。たかが飲み会だろ?いや、そんなことじゃない。何よりも気に食わないのは「先約があるから」と拒否することによって、先約先のコミュニティに俺を近づけまいとする意図が透けて見えるところだ。こいつは介在的審判者を無意識的に演じ、理由なく俺を見えない力で遠ざけたことになる。これは明らかに政治的挑発である。デブの癖にふざけやがって。舐めやがって。

こうした唾棄すべき党派性は、可視化するべき、もしくは破壊しなくてはならないと考える。だが自分自身も宮台が言うところの「島宇宙」をどこかで構成する一員であることも念頭におかなければならない。念頭においた上で、自分のことは棚に上げた上で、他人の醜悪な帰属意識と排他的思考をやり玉にあげていくのである。具体的には「○○さんって、なぜだか知らないけど、□□のこととても大事にしてますよね!そんな価値どこにあるんですか?いや純粋に教えてほしいんですよお!」と愛想よく言うのだ。無論、○○は党派マンの名称で、□□には「党名」がはいる。無害な不快因子であること。つまり非武装の公共の敵であり続けること。これが実践弱者の俺ができる一つの生存戦略でもある。